善光寺表参道大門町ZENKOJI OMOTESANDO DAIMONCHO

創業文政十年
門前そば 藤木庵

住所 長野市大門町67
TEL 026-232-2531
メール info@fujikian.co.jp
URL http://www.fujikian.co.jp
営業時間 11:00~15:00(14:30LO)
定休日 火曜(祝祭日・繁忙期は除く)

北信州の契約生産者による「黒姫の霧下そば」を自家製粉。風味豊かな十割そばを、二年もの枯本節を使ったコクのあるそばつゆと共に。オリジナルくるみ汁、宮城蔵王地鶏使用の鴨汁ほか、揚げたて天ぷら、信州の純米酒など、そばを引き立てる味を揃えております。

食材を生かす調理技術や、味付けを尊重する日本料理。蕎麦には日本料理が目指すものが込められています。製粉・蕎麦打ち・蕎麦茹で、その技術の全てが、蕎麦の風味を引き出すために注がれます。そして、蕎麦つゆ。時間と手間をかけた枯本節の旨味が凝縮されたダシに、醤油・味醂を寝かした「かえし」を合わせます。信州は霧下蕎麦を育てる最高の地域です。当店は和食文化である蕎麦を守って参ります。


〔2024.04.26〕
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激動の時代も看板を守り続けた
創業180余年の老舗そば処

 「藤木庵」は江戸後期の文政10年(1827年)、「蕎麦処 麻屋廣吉」の跡地に創業。創業者は藤澤ワノという女主人で、夫の善蔵が亡くなり、実家の兄で高山村奥山田の藤澤辰右衛門の援助を受けて開業したと伝わる。以降、ワノの息子で二代目の大吉、三代目の善吉へと受け継がれた。

6代目主人の喜一氏の頃の、昭和42年頃の店頭。時代にあわせ気軽な食堂風で、店名も「ふぢき」にしていた。左の上堀小路の奥にはダンスホールがあった

 江戸末期~明治の四代目店主・由三郎氏は、その手腕で商いを広げ、明治期には表店の奥に2階建の奥店を構えた。1階には60畳の大広間、2階には小座敷が何部屋もあり、婚礼などの宴席も行われた。また由三郎氏は明治32年に始まった「長野えびす講煙火大会」の発起人の1人でもあり、当時の長野の政財界での活躍もうかがえる。

7代目・由文さんが昭和51年に全面改装し、そば処らしい和風の店構えに。店名も「藤木庵」へと戻した

 五代目・梅太郎氏の代の大正末期、中央通りの拡幅工事の為に、解体して大工に預けておいた表店が火災で消失。奥店の大広間をそば処兼食堂にして営業し、表店は簡単な造りで建て、貸店にした。六代目・喜一氏の頃、第二次世界大戦で食材が不足し、営業が難しい状況に。周辺に疎開した工場の社員食堂として営業したこともあった。さらに終戦を迎えると、60畳の大広間を目当てに、奥店を進駐軍に徴収されてしまう。大広間は床が貼り替えられ、米兵がダンスをするホールになるなど、2~3年程は進駐軍が使っていたという。

8代目である現ご主人・浩一さんが継承し、平成20年に現在の店舗に全面改装。「善光寺門前でのおもてなし」に心を配った空間で、手打ちそばを堪能できる

 表店を直し、そば処が再開したのは戦後3~4年が経った頃。進駐軍から返された奥店は、1階をダンスホールとして貸し、2階はアパート「藤木荘」となった。昭和42年には表店を改装。周辺企業の昼食弁当も請け負い、そばの他、とんかつ等の食事まで幅広く扱った。

藤木庵近くの小林一茶の句碑。一茶が『七番日記』に大門町で詠んだ「藤棚や引釣(ひっつ)るしたる馬の沓(くつ)」を記している。藤木庵店名との関係は定かではないが、にぎわう門前に藤棚があったことがわかる

 その後は2度の全面改装を行うなど、時代と共に歩みながらも、蕎麦粉は、明治の五代目の頃から現在まで一貫して信濃町黒姫周辺で採れる『霧下そば』を使い、門前そばの味を守り続けてきた。江戸の昔と変わらず今日も、善光寺参りの旅人が、藤木庵ののれんをくぐる。

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