善光寺表参道大門町ZENKOJI OMOTESANDO DAIMONCHO

大門町住民が語る
座談会

特別座談会―大門町界隈への想い―

座談会の様子

 第12回 「長野灯明まつり」開催期間中の2015年2月10日、大門町の街路整備(1996年)に携わった組合員、関係者8人による座談会を開催しました。計画から完成まで約8年をかけた街路整備は、善光寺門前の歴史を踏まえた新しいまちづくりであると同時に、そこに暮らし、働き、来訪者をもてなす立場にある人々の熱い想いを、街並みに反映させる、かつてない取り組みでもありました。
 大門交差点から善光寺交差点に至る石畳の街路と、その両側に広がる風情ある建物景観、そして、おもてなしの心に満ちた人々の存在は、今も仏都・長野市を特徴づける個性として世界からの来訪者を魅了し続けています。
 街路整備から20年が経過し、路面の店舗・施設の新改装や、店主の世代交代などが相次いでいます。地域一丸となり熱意を持って取り組んだ街路整備と、その後のまちづくりの活動を振り返るとともに、この魅力ある界隈を次代へとつなぎ、さらなる発展を期する想いを、当時を知る人々に語っていただきました。

2015年2月10日 楽茶れんが館で実施

出席者(敬称略)

  • 和田 智
    和田 智
    元長野市建設部長、都市デザイン室長
  • 関 邦則
    関 邦則
    関 建築+まち 研究室 代表
  • 藤井 寿人
    藤井 寿人
    かどの大丸 店主
  • 藤沢 由文
    藤沢 由文
    門前そば 藤木庵 7代目
  • 藤井 奎子
    藤井 奎子
    THE FUJIYA GOHONJIN
    (旧御本陳藤屋旅館)女将
  • 渡辺 一
    渡辺 一
    糸長本店 店主
  • 宮島 章郎
    宮島 章郎
    長野 凮月堂 本店 店主
    長野商店会連合会会長
  • 武井 哲夫
    武井 哲夫
    武井工芸店 店主
    大門町上商店街協同組合理事長

近代的な町の象徴
アーケードの時代

1980年代前半頃まで、長野市中央通りの歩道にはアーケードが設置されていました。大門町上区もアーケード通りでした。当時、アーケードは近代的な商店街の象徴であり、歩行者にとって便利でしたが、その一方で、屋根や柱、それに電柱が人々の視界を遮り、沿道に続く歴史的な景観の存在に目をとめる人はごくわずかでした。

藤木庵の前のアーケード

武井(司会) 本日はお忙しいなかお集まりいただき、ありがとうございます。2015年1月20から2月28日開催の「善光寺表参道大門町 今 昔」写真展並びにまちあるきは、おかげさまで多くの皆さんにご覧いただいているようです。皆さんのご協力に改めて感謝申し上げます。
北陸新幹線の金沢延伸と善光寺御開帳を控え、この大門町界隈でも各所で歴史の趣を生かした新改装が進んでいます。大門交差点から南の街路も石畳風に様変わりしました。かつて「石畳の街並みなどできるはずがない」といわれながらも、皆さんの努力で実現し得た大門のこの街並みが、いかに大きな役割を果たしてきたかを思うと、実に感慨深いものがあります。本日は、改めて当時のまちづくりを振り返りつつ、大門町の今後に向けて意見交換をしたいと考えています。
 昭和50年代初頭のこの界隈は、車道も歩道もつぎはぎだらけのアスファルトで、何ともみじめな印象がありました。アーケードも「開閉式」をうたいながら、まったく開閉しておらず、補修を繰り返したものでしたね。

藤井(大丸) あのアーケードは昭和35(1960)年に設置されました。日本で最初にできた東京日本橋の人形町と京都三条のアーケードに次ぐ、日本で3番目か、遅くとも4番目の非常に先進的な取り組みでした。開閉式の部分はジュラルミンで、飛行機の翼に使った残りの素材。柱はボイラーの廃材を使いました。完成時は見た目も立派なものでしたが、寄せ集めの素材だったことと、柱が雨どいの機能を兼ねる構造だったため、老朽化のスピードが早かったのは否めません。

藤沢 素材にしろ、デザインにしろ、機能にしろ、当時は、町の中でもずいぶん悩んだり揉めたり、葛藤があったはずです。でも、まちづくりの一つの試みとしては価値あることだったんだと思いますよ。結果的に老朽化が早かったために、補修を繰り返し、撤去する頃にはずいぶん傷んでいたわけですが、あの時代ではあれが精一杯だったんでしょうね。

渡辺 小学校時代に完成したのを覚えてます。あのジュラルミンの板がピカピカしてて、うれしかった。あの頃、中心になって活躍してたのは敬さん(中沢 敬)たちでしたよね。「三羽ガラス」って呼んでたような。

藤井(大丸) ははは、懐かしいね。凮月堂さんと、喜多の園さんとね。機関車の「三重連」とか呼ばれたっけ。まあ、熱かったのは確かですよ。

藤沢 大門町のアーケードにならって、他の町でも次々とアーケードをつけた。

藤井(大丸) アーケードが新しい町の象徴みたいな時代でもあったから。大門町が先進なまちづくりにこだわった背景として、この地域の先輩たちが早い時点から危機感を抱いていたことも忘れてはいけないでしょう。
 かつて新聞に掲載された「寂れゆく大門町」という記事を読んで、ショックを受けたと聞いています。明治時代に800人だった大門町の住民が、短期間に500人にまで減ったことから、そういう表現になったようですが、それ以来、町の中には常に「寂れる」ことへの危機感があったのだろうと思います。経済規模が拡大し、商業の中心地が門前から南へ移っていく時代の流れの中で、商店街としては面積が狭いこともあり、強い焦燥感を抱いた。それが、地域が結束して何かやらなくてはと行動するようになった始まりではなかったと思います。

宮島 アーケードは、その心意気を最初にかたちにしたものだったんですね。

渡辺 開閉式で、なんか斬新なものが町にできたって印象でしたよ。ただ、ちょっと乗るとすぐ、ゆがんじゃうほど薄い板で。

藤井(大丸) 開閉式にしたのは、消防署からのお達しでした。万が一、火災が発生した時に、アーケードが火の道にならないように、上に抜けるように、手動で開く構造にしたんです。

武井 冬になると、せっかく開閉式になっている屋根の上に雪が積もって危険になるので、みんなで雪下ろしをするんですね。でも、そのせいで柔らかい屋根の部分がベコベコにゆがんじゃったって聞いてます。それで波板で補修したと。

藤井(大丸) 柱はそのまま使っていたので、余計に補修を重ねることになって。

武井 それが昭和60年代まで、ずっと町の顔として残っていた。住んでいる人には見慣れた景観で、愛着もあったと思いますが、外から見たら「なんだこりゃぁ」的なものになってしまってたわけですね。

藤井(大丸) でもね、アーケードのおかげで軒いっぱいまで商品を並べられるって、商店の皆さんからはずいぶん喜ばれたものです。撤去にあたっては抵抗を感じた人も多かったと思いますよ。

武井 昭和50年代中頃には、そのアーケードの屋根から、大門町の紋を白抜きした紺色の幕を下げたり、歩道の途中に緋毛氈(ひもうせん)を敷いたベンチを用意したりして、街並みを飾りましたね。

宮島 毎年、大みそかから正月三が日にかけ、駐車場の整備を分担し合ったのも、イベントのようなものでしょうか。そうした行事やイベントの一つ一つに、近い年代の者同士がみんなで取り組むことで、お互いに意見交換ができ、仲間意識が育っていったように思います。

電柱地中化を契機に
「物語」のあるまちづくりへ

1970年代、長野市は「交通セル方式」を採用。市街地を細胞(セル)状に区切って道路網を構成し、中心市街地の交通の円滑化に乗り出します。あわせて、長野県は中央通りの電柱の地中化を決定。大門町上区の商店主たちは、これを「新たなまちづくりの契機」ととらえ、行動に出ます。1998年の長野冬季オリンピック開催が決まり、歴史ある名刹・善光寺の門前としての位置づけを自ら再認識し、世界の人々を迎え入れるまちへの挑戦が始まったのです。

武井 昭和62(1987)年に、「大門地域のイメージ形成ものがたり」をつくることになります。その経過を振り返ってみたいと思います。

藤井(大丸) それに先立ち、今から6回前の善光寺御開帳の前年に、東京の竹中工務店に街路整備を依頼したことがありました。歩道をタイル舗装し、街灯、ベンチを設けるプランで、1軒あたりの負担金が200万円だったでしょうか。当時としては非常に大きな負担で、どうしようかと話し合っているさなかに、実行委員の幹事役だった小笠原さん(喜多の園)のお父さんが亡くなられた。工期的にも厳しいという話で、その時は工事を見合わせました。

武井 それを契機に、先輩方が「今後のまちづくりは『若い門会』でやってみろ」と。若者と大門にかけて命名した若手の会、つまり青年部にまちづくりの計画がゆだねられたのですね。

藤井(大丸) その際、「長い目で見て、統一のとれた町をつくる」「住民の皆さんの意見を聞き、反映させたまちづくりをする」という課題を与えられました。それで、各地の視察や、講師を招いての勉強会を熱心に行うようになったわけです。その過程で、市街地の電柱の地中化計画を知り、さらに1988年には10年後の長野冬季オリンピック開催が決定して、急速に盛り上がるようになりました。
 ちょうど善光寺の改修というタイミングも重なり、東京大学の名誉教授で建築史の専門家・太田博太郎先生に委員長を、信州大学工学部建築科の岡村勝司先生に副委員長をお願いし、善光寺事務局、長野市、大門町上区、大門町南区による「大門地域まちづくり委員会」が発足しました。コンサルタントとして今日、お越しいただいた関さんと、故・北沢公康さんにお願いし、活動をスタート。最終的に2000万円の予算を得て2年がかりでまとめあげたのが、冊子「大門地域のイメージ形成ものがたり」です。

 善光寺へ向かう道すがらは、期待と緊張感を持って参道を上ってもらい、参拝後、安堵と達成感を持って参道を帰ってもらえるようなまちという発想に基づくプランニングですね。

宮島 まさに「物語のあるまち」です。

藤沢 ちょうど駅側から電柱の地中化が始まり、大門町が最後のエリアになることが決まっていました。その工事に合わせて思い切ったまちづくりをするということで、我々は熱い思いでスタートしたけれど、現実はなかなか大変でしたよね。駅周辺から大門まで、町によって意見が全然違うし、熱意も違う。地域のイメージ形成という「ものがたり」を思い描きながら進んでいこうとする大門の考え方と、他の町々との隔たりが大きくてね、大変な議論が繰り返されたのを思い出します。

渡辺 私は傍観する立場に近かったので客観的に見てたけど、地域によっては、何度となく繰り返される合同会議を、“酒にありつける場所”くらいに考えて代表が参加してくる町もあったと思いますよ。私たちが勉強会を重ね、思いを語り合って、イメージを共有し合い、みんなでまちづくりをしようと意気込んでいたのとは温度が違いました。何度話し合っても拉致があかず、八十二銀行のところまでで分離して、南側の工事だけ先に進めてもらおうという話も出ましたよね。八十二銀行から門前までの区間が自分たちの意に沿わない方向で決まるようなら、工事を止めてもらって自分たちでやろうという声まで出た。それほど熱く、覚悟を決めて取り組んでいたんですね。それまで藤井さんたちが熱く語っていた「百年後に評価される町にしよう」という言葉は、その時点で、みんなに共通する思いになっていたと思いますよ。

藤井(大丸) あの頃は高度成長期の真っ盛りでね。経済は伸びる、休日は増える、人の流れも車も増えるという時代でした。善光寺の参拝も、北側の駐車場まで車で来て、裏から入って参拝して裏から帰るという人が増えていた。本来の「門前」を何とかしなくてはという思いは強かったですね。
 それと、国道406号線の南に、2000坪ほどの駐車場用地があったのです。それを生かせば、参拝客を門前ら善光寺へ迎え入れられると考えたのです。高度成長が続く中、商売を続ける私たち自身にも、それぞれ夢がありました。それを、どう実現させていくかをビジョンにしたかったですね。そうすることが長野市の将来にとっても必ずプラスになるという思いで取り組みました。
 その一方で、町ごとの浮沈も明確化していた時代でした。最もにぎわう繁華街が駅前に移り、権堂や新田の商店街が空洞化していく。商店街の活動は、地域のお客様のシェア争奪戦のような様相があり、長野市の商工部などを訪れる目的は、まず「陳情」でした。そうした中で、我々は「陳情」ではなかった。外部からお客様を呼び込み、新しい長野市を創造するという思いがあったのです。それが、当時の市にとっては、うるさかったようですが……。

和田 当時、私は都市計画課の下っ端で、そのプランニングには関わっていませんでしたが、後でその本を見たときは、実に驚きました。本のすばらしさもそうですが、それをつくった大門の皆さんのまちづくりへの情熱に感心したものです。

「善光寺の前庭」
造園建築家・マークの目線

大門町上区の面々が、新しいまちづくりのパートナーとして選んだのは、京都に住むアメリカ人青年でした。造園・建築家 マーク・ピーター・キーン。日本の歴史的景観を理解し、その美しさを生かしながら地域の個性を反映する街路のプランニングは、人々を驚かせ、感動させました。

武井 「大門地域のイメージ形成ものがたり」をベースに、具体的なまちづくりが始まるわけですが、「善光寺の前庭」をつくるという発想は、どのあたりで生まれたのでしょうか。

大門町より善光寺を望む

藤井(大丸) マークの発想ですね。アメリカ人の青年が、そんな発想をすること自体、驚きでしたし、地域の皆さんも最初は疑心暗鬼だったと思います。でも、結果的にそれがよかった。外国人の目線を生かした「日本の新しい街並み」が誕生したんですから。私たちも、外国人の目で感じる「日本らしさ」「善光寺らしさ」「門前らしさ」を表現することで、世界の人々が足をはこびたくなる街路になると確信したのです。

武井 当時、市民新聞に「大門町の挑戦」なんて文字が躍り、ユニークな取り組みがシリーズで紹介されましたね。善光寺門前という伝統ある地域の街路設計を外国人にゆだねること自体を「挑戦」ととらえられたわけです。
 マーク・ピーター・キーンさんは京都を拠点として活躍するアメリカ人造園建築家で、京都市内に「日本的らしい」意匠の施設を設計し、すでに脚光を浴びていました。街路計画をいろいろ模索している時、関さん、渡辺さん、私の3人で、事前視察に京都へ行きましたね。

 マークの仕事を見て歩きました。京都くろちく本社(和装・工芸)、百足屋本店(レストラン)、KIZASHI THE SUIT(キザシ ザ スイート/旅館)を視察しました。

武井 建物だけでなく、そこに付随する路地が素晴らしかった。新しいのに、すでに何十年もの歴史を重ねてきた路地のように見えました。これをつくれる人なら、大門町の街路を任せられるのではないかと、大きな期待を抱いたんです。それで、私たちのまちづくりへの思いや、ここをああしたい、こうしたいというメモ書きして、町の写真を100枚以上送り、見てもらいました。その後、マークが訪れたのは夏の暑い日でしたね。五明館さんの2階に集まり、我々が送った写真を元に彼が描いたマスタープランを見せてもらいました。

渡辺 模造紙1枚程度のごく簡単なものでしたね。説明も5分程度でしたが、すごいという印象を持ちました。まず町の入口にあたる通りを狭めてあって、そこを抜けると広くなるという、思いもかけない発想にガツンとやられた。並木の木が今までのプラタナスの3分の1程度に減っているのも驚きでした。緑が少ないという声に、彼は「この美しい蔵の町並みを木が隠してしまう」と答えた。これにも度肝を抜かれました。

善光寺から移設された常夜灯

藤井(大丸) 善光寺から常夜灯を移設したいという我々の希望にも、マークは情熱を持って取り組んでくれました。

藤沢 マークと一緒に何度も見に行ったが、彼はそりゃあ熱心に1基1基選定してましたね。しかし、マークのプランを実現させるのは簡単じゃなかった。何度も県へ交渉に行き、マークのプランを見せて説明するのですが、受け入れてもらえない。マーク本人を伴って県へ交渉に行った時の彼の迫力は忘れられませんね。5時間におよぶ交渉の末に、ようやく県を説得したんです。

藤井(大丸) その下地として、和田さんが建設省へプランを持って行って同意を得てくれたのが大きかったんです。県より国の方が柔軟だったんですね。長野が冬季オリンピックのホストシティになるにあたり、善光寺の門前が世界を迎える長野の顔になるという意識を、県より建設省の人たちが持っていたわけです。

和田 当時、私は都市計画課のデザイン室にいたのですが、オリンピックを迎えるにあたり、長野市として何をすればいいかを模索している時期だったのです。自宅にお客を迎えることにたとえるなら、玄関は駅前、廊下は中央通り、座敷は善光寺の境内、そして善光寺門前の大門町は「前庭」。「大門地域のイメージ形成ものがたり」を経て、マークによって新たにプランニングされた大門町は、まさにそれにふさわしいものでした。しかし、半年あまり県へ通い詰めても、まったく受け入れてもらえない。そこで意を決して建設省へ説明に行ったのです。
 まず担当の方に3分説明したら「やりましょうよ」と。係長のところへ行くと、即オッケー。課長に説明すると、わずか1分でオーケーです。説明する私の後ろでは、担当外の人たちが集まって「やりましょう、やりましょう」って、応援してくれるんです。結局、ものの10分で、国から承諾をもらうことができました。その場には県の担当係長もいて、「できっこない」と言っていた県の説得に尽力してくれました。

藤井(大丸) 実施には電柱地中化協議会の全6地域の賛同が必要で、その調整にも苦労しましたね。

和田 2年間で38回の会議を行いました。

藤沢 意見も考え方も合わず、脱会しよういう話が出たほどです。まぁ、結果的には協議会に入っていたからこそ実現したわけですが。

藤井(大丸) 車の通りがほとんどなかった大正時代の道を改修して、車の多い今の時代に合わせるのに、なぜ車道を狭めて歩道を広げるのか、という基本的なところから議論がかみ合わないんですね。「オリンピック」が大義となって、皆さんに納得いただくかたちとなりましたが、日頃、善光寺の参拝客を相手にしている商店会の皆さんが、それぞれに「愛着を持てる町にしたい」との思いを持っているからこそ、実現したのだと思います。

藤井(藤屋) そんなことがあったなんて、今、初めて聞いて、心から驚いています。

武井 車道は黒御影石、歩道は紅色花崗岩。マークが青島(チンタオ)まで行って手配してきた石です。特に歩道の石は、単純に同じサイズではなく、6サイズの石を組み合わせて敷き詰めてあります。

藤井(大丸) 組み方も、下の方の敷き詰め方はけっこうバラバラ、上へ行くにつれ、整然と井桁になる設計なんですね。「カジュアルからフォーマルへ」、街路を善光寺へ向かいながら、精神的な変化を促すという発想が実に斬新で、繊細です。人々が生活する一般の町と、聖地である善光寺のつなぎの町というコンセプトでプランニングを進めたんですね。もともとは車道も歩道も同じ色の石を使う計画でした。
 以前、竹中に依頼した直後から、積み立てを始めていたので、当時、全体で1000万円ほどになっていました。それが、県と市で費用を折半していただけることになったため、植栽を充実させることができたのです。

武井 植栽に関しては、植栽マスの前のお宅がそれぞれ手入れをするというのがマークの提案でした。

大門町より善光寺を望む

渡辺 ありがちなツツジを植えるのはつまらないと考えていましたが、マークの提案は、まさに「坪庭」。京都の町家の前の坪庭が家によって異なっているのが、歩く人の目に楽しい変化を提供すると言ってね。

藤井(大丸) 洋花は植えず、和の樹木や草花に限定した点も、当時としては珍しいことでした。

藤井(藤屋) お客様からよく、常夜灯のところから「気」変わるというお話をいただきます。それは、皆さんたちがご苦労して今の町をつくったからこそなのですね。今、皆さんのお話をうかがいながら、改めて確信を深めました。

武井 石はチンタオ、街路灯はフランス製、設計者はアメリカ人。善光寺の門前町として本当にふさわしいのかという声もありました。しかし善光寺の仏様もインドから韓国を経て日本・信州へ渡ってきた経歴を持っているからと。

藤井(大丸) 時代をどこに設定するのかも、いろいろ議論がありましたね。「門前」というと江戸のイメージが強いですが、ここは最も盛んだった「明治・大正」を核にした。だから外国のものも決して不自然ではないんです。

長野冬季オリンピックと
その後の門前

善光寺門前の新たな「舞台」となった大門上区。長野冬季オリンピックのにぎわいの記憶は、ただの思い出で終わることなく、さまざまなイベントや地域づくりの取り組みに引き継がれています。「長野灯明まつり」「善光寺花回廊」そして、ながの御祭礼、善光寺御開帳などのたび、善光寺に最も近い門前のまちとしてにぎわう「舞台」としての責任と誇りが、このまちの人々の気概を支えています。

武井 さて、オリンピックが終わった後、東口の時計塔を大門交差点のポケットパークに移設することになりました。時計塔一つでは観光資源として弱いということで、従来からある松に合わせて桜と藤を植えることが決まったのですね。桜はしだれ桜。藤は、界隈に「藤」のつくお宅が多いこと、また一茶が「藤棚や引釣るしたる馬の沓」という句を大門町でよんでいるという説があったことも決め手になりました。桜の季節には「お花見会」が開かれ、市民に憩いのひとときを提供していますね。

受賞記念碑

藤井(藤屋) 大門上区の婦人会「すずかけ」の会の催しとして、お抹茶とお菓子のふるまいを始めたのですが、市民の皆さんの間ですっかり定着したようです。最近は11時頃にはお茶もお菓子も終わってしまうほど盛況で、毎年開くことの大切さを実感しています。

武井 藤井さんには数年前、名古屋で開催された「全国まちのシンポジウム」で、大門町のまちづくりについて、女性の目線から語っていただきました。

藤井(藤屋) 私自身は家業のことばかりに目が向いていたので、まちづくりのご苦労は何もわからず、指名を受けて困ってしまったのですが、武井さんに資料を作ってもらい、そのうえ一緒に行ってもらって、何とか役目を果たすことができました。皆さんのご苦労によってできたこのまちのよさが、少しでも全国の皆さんに伝わるといいなと思ってお話したことを思い出します。

武井 街並みが完成した当時、長野市民新聞はここを「舞台」と表現してくれました。その後、関さんにもご尽力いただき、国土交通省の「都市景観賞」「手づくり郷土賞」など5つの賞をいただきました。

 日本建築学会の「北陸建築文化賞」、建築士会の「建築文化賞」などの申請準備をしたことを思い出しますね。この町の空間が表彰されたということですから、それをサポートした皆さんも誇りを持っていいことだと思います。

武井 この「舞台」で「表参道冬の花」と題した草月流のパフォーマンスを行ったり、岡正子さんによるエイジフリーのファッションショーを開催したり、野外彫刻を置いたり、いろんな催しが行われました。中でも印象深いのは、道一面にチューリップの花びら30万本分を敷き詰める「インフィオラータ」ではなかったでしょうか。

インフィオラータ

藤井(藤屋) 2002年から3年間行われましたね。夢のような日々だったことを懐かしく思い出します。イタリアのアーティストの皆さんがうちへお泊まりになって、昼夜を問わずメンテナンスに取り組んでいました。ボランティアの方々の活躍も大きかったのですが、その中心となる皆さんの人を感動させるための地道な努力に、感動しました。もちろん花びらによるアートも、それはすばらしくて、たった2日しか持たないのに35万人もの観光客が訪れたんですね。

武井 2日で6000万円もの費用がかかるという噂が広がり、物議をかもしましたが。

藤井(大丸) 2年目までは県が支援してくれたんですね。ところが3年目からは地元予算でやれと言われてしまい、主催者の商工会議所が撤退してしまった。地元ではそんな予算は捻出できない、かといってここでやめるわけにはいかない。「やりたい」という市民の声や署名も集まっている。それで、プロデューサーの今岡寛和氏のもとへ直接交渉にうかがい、プロデューサー料をまけてもらったのです。帝国ホテルの事務所での話し合いを終え、山手線に乗った途端、ホッとしたのか鼻血が出ちゃいましてね、止まらなくて周囲の皆さんが心配してくれたことを覚えてますよ。イベントの実施にあたっては、ボランティアの皆さんの情熱と行動力が大きいですね。

藤井(藤屋) 今、かたちをかえて「長野花フェスタ」が行われていますが、いつか宝くじが当たったら、もう一度、この門前の石畳一面に花びらを敷き詰めてみたいですね。

未来への願い

街路整備完了から20年が経過し、まちの様子は大きく変化を遂げています。建物の新改装はもちろん、老舗が業態を変えたり、新顔の店舗が登場したり、店主が世代交代したり、その変化は今後も続いていくでしょう。かつてのまちづくりの挑戦者たちは、次の時代の挑戦の行方に、大いに期待を寄せています。

武井 長野における、ある意味「別格」の町として歩みを刻んできた大門町上商店会ですが、今後、どうしていったらいいのか、皆さんのご意見をお聞かせください。

座談会の様子

 私は建築・まちづくりという立場から、「善光寺まちづくり会議」をはじめとするいろいろな団体や商店街の皆さんとおつきあいがあります。その方々と街並みを検討するたびに、「善光寺の聖性」に対し、その周囲を取り巻く「俗」という観点がよく話題にのぼりました。大門町というのは、聖俗の接点としての位置づけが顕著であり、伝統の中に近代性を取り入れながら、さらに周囲の地域との違いを際立たせて、今の個性を育ててきたのだと思います。整備完了から20年の間に、店舗も町も変化してきています。これからも変化を続けていくのでしょう。そうした時、これまでの背景を生かし、保ちながら、変化に対応していくことが大事であろうと考えます。街並みや建築は、いわばハード。それを支える皆さんの「ソフト」を、仕組みをきちんとつくって維持していくことが大切でしょう。
 整備そのものは電柱地中化という時代のタイミングに合わせたものですが、それを行政まかせで安直に進めることなく、確固たる意思を持って取り組んだ点は、他の地域のまちづくりにも大いに参考になるはずです。そして皆さんが誇りを持って維持している点が非常に大事だと思います。

武井 数年前から長野市の御祭礼が復活しました。大門町にも屋台があり、江戸の絵図にも描かれています。大切な祭りの保存、屋台の展示など、伝統を伝えていくために取り組むべきことも、今後考えていきたいものです。大門町が声を大にして言わなくて誰が言うんだという思いです。

藤沢 大門の屋台は重厚感がないと、よく言われるんだけど、現存しているのは本屋台ではないのかな。

藤井(大丸) 本屋台は喧嘩して壊れたって聞いていますよ。

武井 今残っているのは踊り屋台ですね。重厚な本屋台は、一部分しか残っていないんです。でも復元は可能です。町衆の心意気を見せたいじゃないですか。

 それを実現するために、人、お金の仕組みをつくり、意識の浸透を図っていくことが大事でしょうね。参考になる事例が、きっとあるはずです。

藤井(大丸) 正直言うと、祭りの時は店が一番忙しい時なんですよ。祭りに引っ張り出されるのは実に苦労なんで、あまり好きじゃなくてね。

渡辺 祭りの時に、実際に動いているのは屋台を組み立てる建設会社の人だったり、声かけで集まった人たちだったりで、地元の旦那衆は屋台を引く綱に触れるくらいなんじゃないかな。

 お祭りも、まちづくりも、人を育てないと次へつながっていきません。どう運営していくかも含め、先を見据えた仕組みをつくることが重要ですよ。自分たちの町の屋台を残していくという発想ではなく、「地域の屋台文化を守っていく」という、広がりのある取り組みにしていかなくては、と思いますね。

和田 いい舞台にはいい役者が集まり、だからこそ人が集まるという流れがあると思いますね。そういう視点も大事ではないでしょうか。

藤井(藤屋) 京都の祇園祭では、日を決めて観光客が山車を引くことができるようにしていますよね。訪れる人を巻き込む取り組みも、検討する価値がありそうですよ。

 今の時代は、近代化が進みすぎてしまったことへの反動が起きています。それと「和」を見直そうというトレンドもあります。祭りの見直しや屋台の再生は、そうした流れにもうまく当てはまりますね。

和田 先人の皆さんの情熱を引き継ぎ、今ここにいる皆さんが熱心に取り組んできた結果、長野を代表する景観のポイントができあがったことに、行政にいた当時の私は感動を覚えました。その結果、外国からのお客様にとっても魅力あるまちとして、今、インバウンドにも大きな役割を果たしています。改めてお礼を申し上げます。

 行政と町をつなぐのが私の役目と、自分なりに位置づけ、皆さんとともに歩んできました。まちづくりの多くは、行政主導で、住民は受け入れる側。何か言うと必ずぶつかり合うという構図です。だからパイプ役が必要だろうと、勝手に思って取り組んできたわけですが、そうした結果として今の大門町上地区があることを、喜ばしく思います。生きている限り、応援を続けていきたいと思っています。

藤井(大丸) まちづくりは、ここに住む人々、ここで生まれ育った人々が愛着を持ち、誇れるようにすることが第一だと、長い間取り組んできて、改めて思います。ご協力くださった皆さんに感謝すると同時に、今後への期待を膨らませている昨今です。

武井 若い担い手への世代交代など、今後に向けた課題に取り組む必要も感じておりますが、まだまだ皆さんのお力添えが必要です。これからもともに手を携え、いいまちをつくっていきましょう。本日はお忙しいところありがとうございました。

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